意外!民族音楽からの影響
意外なことにブラームスは、民族音楽からの影響も受けていたことがわかっています。
彼はピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いていますが、その歌曲のほとんどは民族的な主題を反映したものか、地方の生活場面を表現したものなんです。
また、『ハンガリー舞曲集』でも分かるように、レメーニから教わったジプシー音楽の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番』などにその語法を取り込んでいます。

新しい表現を貪欲に追い求めていたんですね。
さすがです!
意外なことにブラームスは、民族音楽からの影響も受けていたことがわかっています。
彼はピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いていますが、その歌曲のほとんどは民族的な主題を反映したものか、地方の生活場面を表現したものなんです。
また、『ハンガリー舞曲集』でも分かるように、レメーニから教わったジプシー音楽の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番』などにその語法を取り込んでいます。

新しい表現を貪欲に追い求めていたんですね。
さすがです!
ブラームスはバロック音楽にも多大な関心を払っていました。
中でもバッハに心酔しているといっても過言ではなく、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究を重ねたそうです。
その成果が第4交響曲の終楽章に置かれた、「パッサカリア」です!

テーマはバッハの「カンタータ第150番」の主題を応用したものです。
ほとんどのロマン派の作曲家と同じように、ブラームスはベートーヴェンを崇拝していました。
彼の作品には交響曲第9番と『ハンマークラヴィア・ソナタ』を含む
ベートーヴェン作品からの明らかな影響が見られます。

また古典派の作曲家、モーツァルトとハイドンを敬愛していました。
彼らの作品の第一版と自筆稿を集めて、さらに演奏用の版の編集も担当しました。
古典派への愛情は、ジャンルの選択においても如実に現れています。
彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式をもって、ソナタ形式の楽章を作曲しました。
1890年ごろには琴の演奏も聞いていて、当時発売されていた日本の民謡集の楽譜に書き込みが残されています。ちょこっと書き込みが^^
1897年4月3日、肝臓癌によりウィーンで亡くなって、中央墓地に埋葬。
ハンブルクの実家は長く残っていましたが、1943年7月のハンブルク大空襲で焼けて失くなってしまい、現在は記念碑があるだけです・・・。
戦争でどれだけの物がなくなっているんでしょうかね・・・。
皮肉なものです・・。
大部分のロマン派の作曲家と同じように、ブラームスはベートーヴェンを敬っていたんです。
ブラームスの作品には、交響曲第9番と『ハンマークラヴィア・ソナタ』を含むベートーヴェン作品の明らかな真似も入っていたという・・・。まあ、真似から入りますよね。
また古典派の作曲家モーツァルトとハイドンを尊敬していました。
彼らの作品の第一版と自筆の原稿を収集して、そのうえ演奏用の版を編集。
古典派への愛着は、ジャンルの選択でも現れています。
本当に好きなんですね。
ソナタ、交響曲と協奏曲では古典的なパターンを採用して、ソナタ形式の楽章を作曲。
全般に、ブラームスは全部のロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと言われていて、「新古典派」という名前で呼ばれることもあります。
クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻す!
クラリネット三重奏曲(作品番号114)
クラリネット五重奏曲(作品番号115、1891年)
2つのクラリネット・ソナタ (ヴィオラ・ソナタ)(作品番号120、1894年)を書き上げました。
すごい創作意欲です!
そして、
『8つの小品』(作品番号76、1871年)から
『4つの小品』(作品番号119、1892年)までの
5つのピアノ小品集、『4つの厳粛な歌』(作品番号121、1896年)などの傑作が生まれます!
これらの作品は、晩年の寂寥と宗教的境地に満ちていると評価されていますよ。
スピリチュアルですね。
ブラームスは時々春のイタリアを訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲していました。やっぱりホッとする所が良いですよね^^
1889年12月2日、トーマス・エジソンの代理人の依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音しました。このとき、初めて自分の老いを自覚したと言われています・・・。
誰にもそういう時がくるんですよね・・・。
翌1890年、57歳になり意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めました。死ぬ準備ですね・・。
1862年からウィーンに居着いたブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。ウィーン移住からおよそ10年の後(1876年)、19年の歳月をかけて交響曲第1番は完成した。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年には第2番が、1883年に第3番が、そして1885年に最後の第4番が、それぞれ発表された。
シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14歳年上のシューマンの妻クララを知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。1855年ごろのクララへの手紙の中で彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。アガーテ・フォン・ジーボルトという娘(いわゆる『シーボルト事件』で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従兄弟の子に当たる)と婚約しながら、「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしたこともある。
作曲を始めたが、1851年になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム、フランツ・リストとロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった。